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いわぬまヒストリア
〜布田えみと岩沼〜



私が、人生初めて岩沼の地を踏みしめたのは、昭和43年、5歳10ヶ月の5月。
今でも瞼を閉じると当時の岩沼小学校近辺の光景を思い出します。 北海道伊達市に生を受け、両親、祖母と暮らす私。 その年齢の私が何故、当時の岩沼町を訪問したのか?





私の両親は、北海道伊達市生まれの父、宮城県色麻町生まれの母。 父方はその父親・京野家(秋田県)、母親・砂金家(亘理藩北海道伊達市に開拓に入る) 。 母方の身内は県北、また母が幼い頃より姉の様に慕う従姉が岩沼在住(御年93歳)・・・そんな家系。

当時、本州と北海道の往来は、青函連絡船を経由して、特急を乗り継いで・・・。 縁あって北海道に渡り結婚した母、ゴールデンウィ-クを帰省予定、幼い私を連れて数年ぶりの里帰り。
北海道では、宮城県の祖父母、実家のことを 「内地のおばあちゃん、内地のおじいちゃん」 「内地のお米」。
その「内地」色麻の母の実家に滞在中、岩沼に暮らす母の従姉宅を訪ねたのが、昭和43年5月。 幼い年齢で、降立ったのがどこの地なのか、当時運行していたバスの中から見た景色、まちのにほい。 懐かしい思いが重なります。
そんな地震の記憶と、岩沼町を訪ねた記憶が強く重なります。

岩沼を初めて訪ねたのは、昭和43年5月。
お邪魔したのは、岩沼小学校に隣接する母の従姉宅。 母と母の従姉は数年ぶりの再会。 昔話が始まった2人を眺めつつ、幼い私は外に出て小学校の校庭で遊び始めました。 5歳児の私、何をして遊んでいたのでしょうね?
夕方、帰りの頃、母と2人、バス停で到着を待ちます。
今、思うと保健所前だったのかもしれません。

時を経て。

昭和56年、大学進学を機に宮城県民となりました。
北海道から海を渡り、その昔、明治時代、北の大地の開拓に渡ったご先祖様や北海道に嫁いだ母とは逆の道。

そして、平成元年。
夫、2歳、3歳の息子と私の4人、1月25日、岩沼市民となりました。

私が今、岩沼市、隣に亘理町~先祖様の菩提寺がある~に暮らすことを不思議に思えています。これも、ご縁なのかな、と。
ご先祖様が、導いて下さったのかな、と思うような出会いも沢山ありました。

平成16年、岩沼市議会議員として当選して4年間。 女性の視点、市民の視点、母親の視点で様々な提言を重ねてきました。

「誰もが、安心して、暮らせる岩沼」
「子ども達の笑顔が輝いている岩沼」

子ども達の居場所作り、子ども達が安心して学べる環境作り、子どもの親達が安心して働ける環境作り、 生涯現役で活動できる仕組み作り・・・多くの課題をいただき、実現できたこと、途中のものがあった4年間でした。


 


その後、議会の外で4年間の充電時間を過ごすことになりました。

これまで向き合ってきたイベント企画、音楽活動と同時に、少し広い地域での業務も経験しました。 事業の企画の幅も広がり、食材王国・宮城の米を生かしての米粉麺、米粉の発信、食とは切り離せない、音楽、アートとの連動。 県内外・・・広い地域の多くの世代の方と接することがありました。
その中から感じた、若年層の雇用の問題。
少子化、晩婚化が決して若年層の責任ではないこと。
地方で出来ること、国政で取組むこと、沢山の課題。
周囲の女性達の声を沢山いただき提言として、大臣にメッセージをお渡しもしました。






平成23年3月11日14時46分18.1秒(気象庁発表)。
東日本大震災。

震災直後、未曾有の津波が発生。
東北の海岸線に大きな爪痕を残しました。

私の自宅は、最少限の被災でしたが、家を流され、家族を失い・・・今日現在、未だ家族のもとに帰り着けない方々。
発する言葉が見つからない・・・そんな思いがいたします。


  


停電、断水、ライフラインが途絶えた間。 私の携帯電話のインターネット、ミクシィやツイッターといった新しいツールは生きていました。 自家用車から充電、電波の受信状態が良い所に移動した時に、すかさず情報発信。 岩沼の自宅周辺の様子、親類を見舞った際に見た仙台空港周辺の様子、呟きで、ブログで発信しつづけました。
ひたすら、ミクシィ、ツイッターで呟き、書き込み、安否の発信、地域の情報発信。

「何か出来ることがあったら知らせて下さい」
震災から、2日目。 ガソリンも乏しく交通事情も不安定な中、日本海側から山を越え、水、米、レトルト食品、キャベツ、菓子、自家用車に積み込み、 笑顔と共に届けて下さった友人がありました。

道路状況も良くない中、気遣って下さったそのお気持ち、勇気。 思い返しただけで、涙が出ます。 私の自宅周辺で一番最初に復旧したのは電気でした。 震災から4日目。 (ガスは集中プロパンガスのため、当日から使用可能!) 電気が通じて、自宅での携帯電話充電、携帯電話でのメールの書き込み、返信も少し安定。 灯油、ガソリンが品薄のため、小さな石油ストーブを点し、自宅内では、毛布にくるまり暖を取り。 全国の知人、友人から安否を尋ねるメールが届きます。 海外からの安否問合せもありました。 ある方は、岩沼に親族の方が在住され、ご本人は韓国に留学中、と。 海外に流れる画像は、仙台空港の津波映像。

岩沼の被災状況が知りたくても、連絡手段が途絶えて、と 私宛に問合せでした。 メールの返信をすると、岩沼市内中心部の我が家からほど近い 所にお住まいの方の身内、と判明。 実は、私も以前から懇意にさせていただいていたご家族でした。
早速、ご自宅に走り、韓国からの問合せが届いていること、を お伝えし、ご家族の無事を韓国に返信。 その留学中の方は、県外におられる身内に岩沼の親族の無事を発信。 岩沼の固定電話回線が復旧した頃、県外の親族は既に韓国経由で安否を確認されていた、ということもありました。

3月25日。 ようやく自宅のパソコンがインターネット接続再開となりました。
届いていたメール。 全国からの問合せ。 申し出。
「何か出来ることはありませんか?」
「出来る支援があれば遠慮なくお知らせ下さい」
そんな時。 新聞やニュースで、避難所の方々が下着やタオル、石鹸に不自由を感じている、と知りました。



私は昨年、友人と海外にランドセルを送るボランティアの会を立ち上げていました。 その友人に相談して、全国の友人、知人からの支援申し出を 「下着、タオル、石鹸」 と限定してお願いしました。 人から人へ、ネットを通じて、問合せと提供品が届きます。
岩沼は、幸いなことに、国道沿いに位置しており、物流が比較的早い時期に復旧しました。 温かな心がギッシリとつまった支援の品々。 メッセージを入れて下さる方もおありです。 自宅に一時保管した提供品、段ボール箱が山積みとなり、手狭な我が家、隙間に暮らす数日。 近くの集会所をお借りして、友人達が集まり、箱の中身を仕分け作業。 女性、男性の下着、靴下、Tシャツ、タオル、石鹸。


 


「誰それさんから聞きました。何か役立ちたくていたところです。ありがとうございました」 見ず知らずの方からも送り届けていただきました。
本当にありがとうございました。
支援いただいた提供品は、早速に海岸地域の方々が身を寄せる避難所へ友人と届けました。

震災後1ヶ月となる頃。 ある方から電話がありました。 「岩沼で市民レベルで支援活動を始めようと思う」 早速、合流して活動を展開しました。
避難所に暮らす方、自宅避難をされている方、ほぼ通常の暮らしに戻りつつある方。 同じ岩沼市内でも生活の現況が全く異なります。
「天国と地獄だ・・・」 ある方が表現されました。

岩沼市内、仙台空港周辺、沿岸部は壊滅的な状況でしたが、 市内中央部、市内西部はライフラインも徐々に復旧し、交通機関も代行運転、間引きダイヤながら動き始めました。 そんな中で『自分達に出来る支援の在り方を』を模索し、行政が出来ること、市民が出来ること、 それぞれに必要とされているを痛感しました。


  


JR岩沼駅前にある、旧日通仙南営業所跡地を借用して、生活支援用品提供を始めました。 思いを重ねるボランティアスタッフ、岩沼市内のみならず、近隣の地域からも、拠点の清掃に駆け付けました。 ブログ、メール、新聞チラシ等で支援品の提供を呼び掛け、各家庭の死蔵品、大切に保管された家具類、家電品、衣類・・・ 全国の皆さんから問合せもあり、外国からの支援品も届きました。
拠点以外にも、保管場所を借受け、梱包をほどいて仕分け作業。 開設間もない頃には、始業前から列を成して待っておられました。
「助かりました。ありがとうございました」 笑顔で何度も振り返りながら、支援品を受け取り帰る方。
遠方から、避難所の方々へ炊き出しにいらっしゃる方々がある、と伺い、 「岩沼のために遠来される方々に出来ることはないだろうか?」 と模索。情報交換させていただく中で、岩沼の友人達に応援隊を募り、2日間にわたり、下ごしらえ、調理、配膳~後方支援も行いました。 駅前拠点での炊き出しも行いました。 地元米生産者さんがお米を提供下さったり、お餅の振る舞い、ドーナツの提供。 「食べて元気になろう!!」 提供者、後方支援隊共に温かな心からの支援でした。
「美味しいね」 「ごちそうさま~」 食は命を繋ぐこと。 その思いを込めての奉仕活動でした。


  


2011年6月末。
「がんばろう!!岩沼」拠点は、活動を停止しました。
避難所から仮設住宅に入居された方、アパート、借家で再建生活の 一歩を踏み出した方、損壊した自宅を補修して戻られた方。 塩害や排水機場の被災で稲作始め、農作物栽培が出来ない方。 職場が被災で働く場を失った方。
それぞれの家族が向き合う問題も様々です。 住宅再建、就労、身体と心のケア。 表に見えること、見えないこと。

あるご家庭では、岩沼市内のご自宅を離れ海岸沿いに単身赴任中の主が津波に流されてしまいました。 家族は何度も沿岸部に足を運び、手がかりになるものの捜索、生活の足跡等を探してきました。 そちらのお宅では、震災後、入退院を繰返していたおじい様も容態が悪化。 なかなか行方がわからない息子さんを気遣い、息を引き取られました。 その後、震災から100日を過ぎて、行方のわからない息子さん、おじい様、お二人の葬儀が行われました。 気丈に振る舞う喪主。成長途上にあるお孫さん達。 父親として、祖父として幼い頃から惜しみの無い愛情を降り注ぎ、活躍を楽しみにされていたことでしょう。 お別れの言葉を述べるお孫さん達の姿に弔問の私たちは涙が止まりません。

岩沼が直面する沿岸部の防災対策、復興計画。
子ども達が健やかに学べる環境整備、生活者の視点、市民の声に耳を傾け願いを声として届け、 議会の場で提言を重ねていくことが大切に思います。 これからも、岩沼の元気の象徴、子ども達の輝く笑顔あふれる岩沼であってほしいものです。





皆さん、5年後、10年後の現役世代として、岩沼の未来を 描き、共に語りましょう。
布田えみ、4年間の議員経験を活かし、そしてまた4年の 学びの期間を糧に、岩沼市議会の即戦力の議員の一人として 活動いたします。

温暖で地の利に恵まれた岩沼市。
住み良いまちのランキングにも常連となっていました。
これからも、子どもたちの笑顔と歓声があふれた活気あるまちであってほしいな、と心から願います。
皆さまと共に、5年後、10年後の岩沼のビジョンを描いていきたいと思う私、布田えみです。

復興が完了するその時まで、心ひとつにがんばろう岩沼!!

私たちは生きている限り、どこの地域に暮らしていても、 地震のみならず、災害から逃れることは出来ません。 しかし、私たちには経験や知恵を活かして「被害を少なくする」 →「減災」が出来ます。 身近な地域社会の中で、日頃からの声掛け合い、助け合い、顔の見える 岩沼。 現役世代の1人として、皆様と共に岩沼の元気アップに向き合って まいります。


お問い合わせ:布田えみ応援団事務所

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